Dandelion Fluff
宙言葉:風と生きる
今年何度もした会話
「農業研修をしていて、将来、専業農家を目指してるん?」
「いや〜、違いますね。」
「じゃあ、何するん?」
「農業には関わっていきたいと思ってるんですけど、具体的にはわからないんですよね〜…」
「そ〜なん…」
「ただ、不思議と不安は全くなくて。”絶対に”大丈夫だと思ってるんですよね〜。」
「…ほぉ。」
今年得た、とても不思議な感覚。
何をしていくか、どこに行くか具体的にわからない中での絶対的な安心感
直近約15年やってきた一見バラバラに見えることが、全てつながっていて、何かにつながっている。ということ。
特に目標がないまま、必要な時に、必要な人と出会い協力してもらい、必要なこと必要とされることをやってきた。
主体性がない、と言われるかもしれない。
直近約15年やってきた一見バラバラに見えることが全てつながっていて、それがまた将来の何かにつながっている。という確信
自分の中で“将来やりたいことはこういう感じかな”というものがあり、面白がって期待してくれる人もいる。
ただ、それを裏切られるのも面白い。
・農業を主体としたコミュニティーづくりを行い、それをパッケージとして海外に持っていく
もしくは
・林学、農業、国際協力、福祉、自然栽培を経て北海道で出会ったピザ職人
もしくは
・森林、農業を経ての漁師
もしくは
・色々考えすぎての世捨て人
もしくは
・良きパートナーと出会い、主夫という名のヒモ状態
もしくは
・そもそもそんな時間なんてないのかもしれない…
どうなろうと、それを一生懸命にやっていく自信はある。
今までがそうだったから。
こんな風に頭で考えている顕在意識を、潜在意識は笑い、こう言っているかもしれない『感じろ。月を差す指のように〜〜〜』と
今の自分の解釈では、人生は生まれてくる前に、多少の選択肢はあれど、その意義も含めて自ら決めてきている。
その時々の選択、感じ方はおまかせ。
ゴールは決めてきていて、そのルート選択と感情を楽しむ。
であれば、自分はそれを信頼し、“今”を一生懸命やっていくだけ。
たんぽぽの綿毛のように、風に身をまかせていればいい。
例え海まで飛ばされ、根付き花咲くことができなくても悔やむまい。
今の自分が過去の自分に言うように、未来の自分は今の自分にこう言うだろう。“こうご期待。楽しみにしてな” “今やっていることを一生懸命やって楽しみな”と。
第三者的に、この人が今後何をしていくのか、に興味がある。
冒頭の会話の最後
「逆に、何すると思います?」
@dandy_dandelion
たんぽぽの綿毛のように
自分の価値観
今日は久しぶりに自分のために良い時間を過ごせたと思う。
133日振り(らしい)にブログを書くことができているから。
最初に書いた通り、自分がブログを書く目的は
「自分の考えを整理するため」
「自分がどんな人間として生まれ、生きていくのか/生きていきたいのかを知りたい」
から。
こんな大切なことは余裕がないと考えられないし、それを書いて表現するなんてもっと難しい。
昨日、ふと思い立ち、登山しようと思った。
この地はせいぜい2,000m程度の山だけで、登山というよりハイキングという感じだけどあるだけありがたい。
ただ、時間を取れず今まで一度も山に登れていなかった。
ここに来て2年くらい経ちそうになり、やっと山に登りたいと思えるくらい余裕が出て来た。
昨日仕事を終え、軽く飲んでから準備し、今朝も3時に起きたが、なぜか気持ちがのらずハイキングはキャンセル…
その代わり2度寝しても7時前に起き、歩いて30分ほどにある緑があるところへ。
山の代わりに半分人工的に作られた公園みたいなところだったけど、やはり自分はこういうところが好きなのだと改めて感じることができた。
ジョギングも含めて2時間弱散歩し、カフェでコーヒー飲み、マッサージに行き、髪切り、それでも昼。
昼寝してカフェで読書。
帰って7時には夕食を終え、軽く飲む。
そんな1日。
散歩、マッサージ、髪を切ってリフレッシュできたのが大きかったが、それ以上に携帯をほぼ触らなかったこと、その代わりに本を読んだことが大きかったと思う。
前置きが長くなったが、言いたいこと。
普段の生活で、本当に「自分がなにが好きでどうありたいかが見えにくくなっている」ということに気がついた。
日本にいた時からテレビは見なくなっていて、今もテレビがない生活をしているが、なんとなくネットは見るし、普段は仕事に集中するだけの日々。
現地の人とも駐在している日本人とも話をするが、本当に自分がしたい話ができているか、と言ったらできていない。
言ってしまえば日本でもできていたか、と言えば疑問だけど…
普段入ってくるのは「周りの価値観」
ネットでも、テレビでも、友達からでも。
どうあるべきか、何がいいか、かっこいいか、かわいいか、流行っているか、いいか、悪いか…
何をしている人がかっこいいか、モテるか、どんな子がいいか…
普段の生活の中で、ありとあらゆるものがそう訴えて来て、気づかぬ間にそれが自分の価値観だと思い、正しいと思う。
本当はそんなものどうでもいいのに。
「いいね」「フォロワー」「読者」「ファン」の数。
本当はそんなものどうでもいいもの。
「数が多いほど影響力がある」というのは、周りの評価に頼って生きている、とも言えると思う。
自分がどうありたいかわかっていて、かつ影響力を見出せていればいいが、
影響力を生み出すため、いかに評価を得られるか、を考え出してしまったら、それは自分の人生を生きていけない、ということだと思う。
自分にとっては、自然に近い所で活動し、本を読み、そしてぼーっと考えること。
それが自分を見つめてあげられる方法かと思う。
ただ、自分を理解してくれる人が必要なのも事実…
『カルテルランド』
映画の紹介。
今まで映画を見た中で圧倒的な存在感を持つもの。
これを見てから、フィクション映画を見ても薄い感じがしてしまう。
以下は、以前FBであげた時の文章を少し編集したもの。
『カルテルランド』
〜正義が揺らいでも、悪は揺らがない〜
一体、どう表現すれば、このドキュメンタリー映画の衝撃、戦慄を伝えられるのでしょうか。見終わった後、お盆の思い出も全て吹っ飛び、しばらく呆然としていました。
あるラジオで「シックスセンス以来の衝撃の結末」と言っていたそうですが、私にとっては比較にならないくらいの衝撃でした。
話は、メキシコの痲薬”戦争”について。 大きな力を持ち、警察や政府とも癒着し、一般市民をも襲う痲薬カルテル(マフィア)と、それに立ち向かう人々。
メキシコでの痲薬を巡った抗争は、調べればわかりますが、かなり深刻でかなり残虐です。 映画の冒頭では、みかじめ料を払わない農場主に対し、見せしめとして何の罪もない労働者が、子供も含めて殺されたという話がありました。
この映画の主人公は、こんな状況に立ち上がる1人の町医者です。 『殺されるのを待つか、銃を買って自分を守るか?』と住民にせまり、自警団を作って町からカルテルを追い出そうとします。
前半の印象的なシーンがありました。 武装してある町にやってきた自警団を、軍、警察が違法行為だと制止し、武装解除しようとします。 しかし、軍や警察に”住民が”対立します。今まで軍や警察は住民を守って来なかったと、我々が自分で戦うのだ。と住民が軍に対して訴え、自警団に武器を返させ、ついには町から軍を追い出してしまいます。
自警団には、仲間がどんどん集まり、カルテルの支配から町をどんどん解放していきます。 そんな彼らは、市民を守る英雄として迎えられて行きます。
そんな英雄的自警団ですが、肥大化していくにつれ。どんどん雰囲気が変わっていきます。
様々な人間が参加し、暴走を始める自警団。
自称”警察官”を容疑者として拘束し、銃を突きつけて尋問する自警団員。
肥大化した自警団を取り込もうとする警察署所長。
サンタクロースのような風貌で、にこやかな幹部の思惑。
英雄と称えられる自警団リーダーの意外な人間性・・・
『正義は揺らぐが、悪は揺らがない』
『善と悪の境界線は、今までになく不鮮明になった。』
そして、痲薬製造現場でのインタビューから発覚する、衝撃のラスト…
『事件や災害などで生存への不安や恐怖の感情を刺激されたとき、人は一人が怖くなる。多くの人と連帯したくなる。群れ。これは人類の本能。 ただし、群れにはリスクがある。暴走。 〜略〜 自衛と一体化した正義が、悪(獲物)を求めて暴走を始める。 〜略〜 決して昔話ではない。そして遠い国の話でもない。日本は集団化しやすい。〜略〜 愛する国土を守るため、愛する人を救うため、僕たちは同じ過ちを何度もくりかえしてきたことを、この映画は教えてくれる。』(森達也;パンフレットより)
字で読むと、昔から何度も繰り返されて来た、よくある話だと思うかもしれない。
ただ、これがドキュメンタリー映画だということが信じられません。
迷うことなく、今までで一番衝撃を受けた映画でした。
*この映画、暴力的なシーンが多く、被害に遭った遺体のグロテスクな写真も映し出されます。
興味がある人は注意してください。
H.U.G.S.
Helping Us Grow Spiritually
『あなたならどうする?』
〜もし人種差別の場に遭遇したら?〜
以前FBでもアップしたけど、自分にとって大事なものなので、再度紹介。
テレビである以上、穿った見方で見ると、全てやらせでシナリオがあって役者が演じている可能性もある。
ただ、これを見た後に考えさせられるものが大きく、そういう意味では例えやらせであってもいいと思う。そこは大事なところではない。
『同じ様な状況に遭遇した場合、あなたならどうする?』
日本であれば、在日中国人や韓国人への差別になるのだろうか。
(もちろん、歴史的背景や現状はアメリカでの黒人差別とは全く異なるだろうから、あくまで想像として)
実際にyoutubeやネットでは、在日中国人や韓国人に対する差別的な発言をよく見かける。
盲人象をなでるではないけれど、一部分しか見ないものの見方は危険だと思う。
というか、もったいない、というべきか。
多種多様だからこそ価値のある世界を自ら狭めている様な。
僕の基本的な考えとして、どこにも悪い人はいるし、いい人もいる。
その個人の中にも良い面と悪い面があり、その一部だけに焦点を当てて非難したり絶賛したりするのはセンスがないと思う。
残念ながら今まで在日の中国人や韓国人とゆっくり話をしたことはなく、友人もいないため、特に好きとも言えないし、嫌いとも言えない。
では、この様な場面に遭遇したらどうするか?
気が強いんだか弱いんだかよくわからない僕は、正直どうするのか、何かができるのか分からない。。。
ずるいけど、状況によるだろうか。
差別している人、差別されている人、またその状況による気がする。
また、勝手に想像すると、日本人は何も言わず黙っている人が多い様に思う。
トラブルに巻き込まれたくなかったから。と言って。
実際に、理不尽な理由で事件に巻き込まれてしまうこともある。
正義の味方面して巻き添えをくらったらかっこ悪い、みたいな話も出てきそう。
そう考えると、自己防衛のために何も言わないのも正しい事と言えると思う。
ただ、逆の立場を考えると(幸い僕は、海外で目が細いと笑われる程度以外は特に差別的な場面に遭遇していないけど)、不当な扱いを受けている時に、味方が現れたら救われた気持ちになる。
また、最後の女性が言う様に、その場で何も言わないと自分が傷つくだろう。
『自分が間違っていると思う状況で、なぜ何も言えなかったのだろうか』と。
そう後悔してしまうのが自分にとってつらい事なのではないかと思う。
特に、日本ではこの様な状況は頻繁に訪れることはなく、「次はこうしよう」と思っても、もう二度と起きない可能性が高い。
と考えると、何かしらできたらと思う。
それが1組目や3組目の様に攻撃的なのか、最後の女性の様にできるのか。。。
(合気道で最強の技は)『自分を殺しに来た相手と友達になること』
最後の女性はまさにこれを体現している(攻撃対象は彼女ではなかったけど)。
どうしたら自分が彼女の様に強く、かっこ良くなれるかわからない。
無様でかっこわるくても良いから何かできたら、と心の準備をしておきたい。
"imagine"
30代男。
海外在住中です。
頭にぼやっとあることを整理できるように、思っていることを書いていきます。
自分がどんな人間か。
みんなそれぞれが違った趣味嗜好・考え・能力・才能を持って生まれてきていて、似た人間はいても、全く同じ人間はいないと思います。
そういう意味で、全ての人が特別であり、同時に(全ての人が特別なのであれば)特別な人などいない、とも言えると思います。
それぞれの人が『特別な自分』をどう表現するか。
自分は感覚で生きているところが多くあり、
文章を書く事と、写真を撮ることで自分を表現できるところがあるのではないかと思う。
僕は周りにどう見られるか、ではなく、自分をしっかり見つめてあげて、自分がどんな人間として生まれ、生きていくのか/生きていきたいのかを知りたいと思っています。
SNSやブログでは、どうしても周りからの評価を意識してしまいます。
『より多くの反応を得るにはどうすればいいか?』
これにより、自分を見失ってしまうかもしれない。
逆に、人に伝えようとする時、他の人にもわかるように表現するため、自分の考えを整理できるといういい点があると思います。
そのため、僕は匿名でブログを書いて自分の考えをまとめる、という方法をとることにしました。
何の脈絡もないけど、"imagine"から。
you may say i’m a dreamer.
but i’m not only the one.
i hope someday you’ll join us
and the world will be as one
中学生の時に歌わされて暗記させられましたが、特にこの部分が好きでした。
歌詞もリズムも。特に”i hope someday”のリズムが特に好きです。
『"imagine"の"dreamer"』ではないかもしれないけど、『1人の"dreamer"』として生きていきたいと思います。
photo @San Francisco '10